ソウルの弘大入口駅(홍대입구역)から京義中央線(경의중앙선)に乗り養源駅(양원역)に向かう。
ホームから階段を上り、改札を抜けると登山グループが見えた。
夜も眠らないような若者の街から、わずか1時間足らず。こんなにも山が近いことに驚く。
9月は秋と呼べるのだろうか。台風が去った後のソウルはとても蒸し暑かった。
今日は、「日本人に生まれて韓国人として生きた」といわれる浅川巧(1891-1931)の墓参りにきた。大正時代、柳宗悦とともに光化門(광화문)の撤去を反対し、涙した人物である。
目的地は、忘憂里公園墓地(망우리공원묘지)。
忘憂里公園墓地はソウル市が管理する公営墓地で、韓国の多くの墓地と同じように自然豊かな場所にある。
養源駅から公園墓地入口までは、歩いて30分ほどだった。
ここには、「思索の道(사색의 길)」というトレッキングルートがある。ルートの中には同楽泉(동락천)という薬水(약수)の汲み場もあり、歩いて1周1時間半ほど。地域の人々のハイキングコースとなっていて、車で訪れる人も多いようだ。
駐車場近くには、ここに眠る著名な方々の写真がはめ込まれたモニュメントがあり、その中の1枚に浅川巧の写真があった。3,000あまりの墓の中で、巧は唯一の日本人だという。
トレッキングルートはアスファルトで舗装されていた。木陰を選びながら登ると、左にアパート群と悠々とした流れの漢江(한강)が見える。とても雄大な景色だ。
途中、韓国で種痘を普及し、近代医学の開拓者として知られる지석영(池錫永,1855-1935)の墓を見つけた。自然の中を歩きながら韓国の歴史に触れることができるのはうれしい。
汗を拭きながら、ゆっくり30分。山側の白い石段を10段ほど上がると、日のよく当たる場所に巧の墓があった。事前に見ていた写真よりも、整備されている印象だ。
墓には、「삼가 遺德을 기리며 冥福을 빕니다」とあり、花が供えられている。その横に淺川巧功德之墓(아사카와 다쿠미 공덕의 묘)の墓標。右側には彼が好きだった白磁を模した石の置物があり、左側の黒い石には次の言葉が彫られていた。
한국의 산과 민예를 사랑하고
한국인의 마음속에 살다간 일본인.
여기 한국의 흙이 되다.
韓国の山と民芸を愛して
韓国人の心の中に生きた日本人
ここに韓国の土になる。
この碑石は、1966年韓国の林業試験場職員の有志が置いたものだ。日本人の彰徳碑が韓国に建てられるのは驚きだという。いったいどのような人生だったのか。
浅川巧は、1891年山梨県に生まれる。
幼いころより花や木が好きで、山梨で起こった自然災害にも心を痛めていたという。
県立農業学校卒業後、営林署で働き始めた。1914年、すでに朝鮮に渡っていた兄、伯教の手紙をきっかけに朝鮮に渡り、朝鮮総督府林業試験所の職員になる。
林業試験所では、種苗の研究に従事。地質や環境調査、種苗等に関する論文をさまざま発表し、林業試験研究に大きな足跡を残している。
当時、巧の夢は「荒廃した朝鮮の山を青くする」だった。
そして、韓国五葉松の苗育成を2年から1年に短縮。研究を繰り返しながら「山と森は自然に任せなければならない」という結論に至ったという。
巧の日記には、「山と植物の生命に助勢して山林を育成さすことを眼目にした仕事でなければ朝鮮の山は救われないと思ふ」とある。
“ 朝鮮の山は救われない ”
裏返せば、「山を救いたい」という強い意志のある言葉だ。しかし、なによりも救いたかったのは、目の前にいる朝鮮の人々であったのではないか。
日ごろから朝鮮服を着て、人々と共に生きたという巧。「山と森は自然に任せなければならない」の言葉も、「森づくりは、自分が愛する朝鮮の人々に任せたい」という気持ちの表れだったように思う。
晩年、試験所職員として大きな役割を占めたのは全国巡回講演だ。研究成果を人々広める必要があったからだ。
1931年、寒さがまだ残る早春の2月から3月にかけて全国を回わり、養苗法について講演。2月17日釜山(부산)、3月12日忠北(충북)、清州(청주)を訪れ、3月15日京城(경성※서울)に帰るころ風邪をひいていたという。
3月27日、巧は急性肺炎で倒れ、4月2日の夜、再び帰ることのできない旅に立った。
葬儀は4月4日林業試験場の広場で行われた。彼の死を悲しむ地域の人々が数えきれないほど押し寄せ、涙したという。日本人と朝鮮人の反目が激しかった当時の状況では想像もできない場面だ。そして、巧は自身が愛した白い朝鮮服を着て、朝鮮人共同墓地に埋葬された。
今、浅川巧が眠る墓地の周りでは、떡갈나무(柏)や소나무(松)が大空に枝を伸ばし深い森となっている。木々の間からは、ゆったりと流れる漢江が見える。本当に美しい風景だ。なぜか巧も一緒に喜んでいるように思えて、私はうれしくなった。
最後に自然を愛することと同時に、朝鮮の芸術と人々を愛した彼の言葉を紹介したい。
『朝鮮の膳』序文から抜粋
その日常生活に私を近づけ、見分の機会を与え、私の間に親切に答えてくれた朝鮮の友、数えきれないほどの多数の方々を一括してここに謝意を表し、なお親しみの一層を加えらるることを希(ねが)って歇(や)まぬ。 昭和三年十二月二日
彼の墓を背にしながら、静かに街を眺めると「일한관계는 진정한 마음이 있어야(日韓関係は相手を思いやる心があってこそ)」との言葉が浮かんできた。
*忘憂里公園墓地(망우리공원묘지)。
愛国の志士、文化芸術家、学者のほか、著名人が多く眠っています。
私たちになじみがある人物は、韓国近代西洋画の거목※「이중섭(李仲燮,1916-1956)。
時代の痛みと屈曲の多い生涯を「牡牛」というモチーフを通じて噴出させた天才画家です。代表作に「황소(牡牛)」、「투계(闘鶏)」、「소와 어린이(牛と子供)」、「싸우는 소(戦う牛)」、「흰소(白い牛)」などがあります。
自然を感じながら、現代史に名を残す人物や歴史と出会える場所です。ソウルの中心部からすぐですので、ぜひ出かけてみてください。
※거목(巨木)比喩的に偉大な人物のこと
「거목이 쓰러지다.(巨木が倒れる;偉大な人物が世を去る)」などと使います。
※『浅川巧全集』草風館1996/11,『朝鮮民芸論集』岩波書店2003/7
『浅川巧 日記と書簡』草風館2003/10,
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